安倍政権で初の国会論戦となる各党代表質問が始まった。テレビニュースを何気なく聞いていると、何時にもなく力が入っている。アベノミクス効果で政治家もいよいよ活性化したのかと思いテレビ画面を眺めてみた。安倍、海江田、平沼、高村らが気合を入れてじゃべっている。ところが何か変だ。4氏とも議員に対してしゃべっているのではない。原稿台に向かって吠えているのだ。要は原稿を読み上げているだけ。迫力を増したいがために力んでいるに過ぎない。この光景は小学校の児童劇よりも劣る。小学生は台本を見ないで演技が出来る。政治家の仕事の一つは人を説得することだ。主義主張の一つや二つを原稿を見ずにしゃべれない政治家などが人を説得出来るはずがない。代表質問者は小泉や野田の爪の垢を煎じて飲む必要がある。更に何故吠えるのかを考えてみた。今から50年以上も前はラジオ中継が全盛だった。国民はラジオを聞きながら、その内容と迫力で政治家を判断した。原稿を見ようが見まいが、内容と迫力がものをいった時代だ。ところが今はテレビの時代。原稿に向かって吠える政治家が如何に頼りなく映るかを理解していない。果たして半世紀遅れの政治家に日本の将来を託すことが出来るのだろうか。
ボーイング787のバッテリー出火事故が深刻な問題に発展している。全日空では2月に400便近くが欠航するという。問題の解決には相当な時間がかかりそうだ。単純な電気系統の配線ミスによるもであれば比較的短期に済むだろうが、リチウムイオン電池をより安全なニッケル水素電池に替えるとなれば認可等に1年はかかるらしい。直接原因は兎も角、問題の根っこはボーイングの米連邦航空局との馴れ合いと、モジュール製造法にありそうだ。米連邦航空局は米航空業界が定めたリチウム電池の厳格基準の適用を見送っていたことが明らかになった。専門家は大型リチウム電池に必要な冷却機構がないのに驚いているとのこと。米連邦航空局は米公聴会でも真面な回答が出来ず不信を招いている。更にボーイング自体も、トヨタのモジュール製造方式を形だけは真似てみたものの、その真髄が理解出来ずにコストが嵩み開発期間も長引き、結局失敗に終わったようだ。2001年に本社をシアトルからシカゴに移したことでトップの本業軽視と航空局への圧力が増長し、結果としてそれが今回の徒になったように見える。浮ついたトップの盲判断が会社を傾けることは世の常なのに。
来月24日で任期が終わる韓国の李大統領の周辺が騒がしい。李大統領が恩赦を発動することに対し、朴次期大統領が反対している。韓国では恩赦が大統領任期終了時の恒例行事になっている。恩赦は憲法上大統領の固有権限ではあるが、司法権を行政権が変動させる性質のものであるから発動を頻発させるのは好ましくない。特に李大統領は4年前の就任時から政治的恩赦をなくすべきと主張してきた人物であるから、その変貌ぶりには驚かされる。恩赦の対象には、身内や側近も含まれているらしい。韓国では「無銭有罪有銭無罪」という言葉が広まっているとのこと。金品の不正をした者を恩赦にしては国民が怒るのも無理はない。それにしても李大統領という人はよく変わるものだ。当初は親日家であったが突如竹島に上陸し反日感情を決定的なものにした。そして恩赦発動反対から、反対されても恩赦発動へと変わった。「君子は豹変し天子は激変す」とは良い意味で使われるが、「大統領は醜変す」とでも言うのだろうか。
テレビ本来の役割は何だろうかと思わせる出来事がある。報道精神を生かし真実を伝えることか、はたまた面白おかしく世相を煽る事か。どうやら日本経済新聞系のテレビ東京も、後者に重きを置いているように見える。昨日土曜日の昼のバラエティー番組は「現状打破TV」が予定されていたらしい。事前に漏れた内容では、何とあのiPS細胞による治療の大半をウソで固めた森口尚史が出演する予定だったらしい。森口はウソがバレテしまい研究では生きていけず訳の解らないタレントに転向している。何とそのタレント森口にスポットを当てようとしていたのだ。この番組はテリー伊藤と爆笑が司会し、他には紅白に漏れた小林幸子や美川憲一らが出演予定だったとのこと。趣味の悪い訳あり人間のオンパレードだ。もしこの番組が放送されていたらテレビ東京の明日はなくなっていたのではないかと思う。幸か不幸か番組は「編成上の都合」という理由でボツになり、急遽別番組に差し替えられた。テレビ東京と言えば、WBSやカンブリヤ宮殿など所謂知的な番組が多い。しかしこの一件で見方が変わった。テレビとは基本的に低俗なものだ。WBSにしてもカンブリヤにしても、きっと汚い裏があるに違いない。テレビの根幹を揺るがせる出来事であったと思う。
貿易収支が過去最大の赤字になったと騒いでいる。日本企業の多国籍化が進み、日系企業からの輸入も増える時代だ。単純に輸出額と輸入額の差である貿易収支で国際競争力を評価するのは実体にそぐわないのではないか思っていた。ところが先日OECDとWTOが付加価値の流れを追う新しい貿易統計を公表した。この統計は、複数国に生産拠点が分散する国際分業の場合でも通商関係の全体像を把握出来るのが特長だ。例えば、日本から60ドルの部品を中国に輸出し、中国で完成させて米国に100ドルで輸出した場合、日本が60ドル、中国が40ドルそれぞれ米国に輸出したと計算する。因みに従来の統計では、日本が中国に60ドル輸出し、中国が米国に100ドル輸出したと計上していたので、中国など最終製品を輸出する国の国際競争力が過大に評価されていたことになる。新しい統計法は、付加価値がどの国でどのくらい作られ、最終的にどの国でどれだけ消費されたのかが分かる優れものだ。すでに大量生産では、日本は中国や韓国には敵わない。付加価値を高めた製品開発こそがこれからの日本の生きる道に違いない。何か明るい日本の未来が見えてきたような気がする。
ここ10年来、冬に一度は通い続けている店がある。この町の老舗の割烹料理屋だ。今日も義母とカミサンと自分の3人でお邪魔をした。オーダーは決まって、フグのフルコース。理由は単純、美味しいし自分が鍋を好きだからだ。鍋料理を見るといつも思う。若い頃はあまり好きではなかった。好きになったきっかけは単身赴任をした時から。単身赴任の7年間のうち、5年間は寮にいれば自分で夕食を作っていた。特に冬は寮に帰るのが楽しみだった。帰り道で今日は何の鍋料理にしようかと思い巡らしていた。途中のスーパーで食材を調達する。牛のしゃぶしゃぶや牡蠣鍋や寄せ鍋など何でも御座れ。しかし付けダレは、必ず大根おろしにボンズと七味と決めていた。この組み合わせが最良の鍋料理と思っている。ところがこの単身赴任中に思ったのだ。先日「ピンクのクラウン」で書いた「いつかはクラウン」のように「いつかはテッチリ」と。やがて単身赴任も終わり、我が家に戻った。何を食べたいのとカミサンが問う。決まっているじゃないか、フグ鍋だよ、と答えた。それ以来、義母と会食する冬の料理はフグ鍋となった。しかし鍋だけが好きなわけではない。鍋料理の神髄は、最後の雑炊にある。全てのエキスが煮詰まった雑炊こそが料理の王様だと思う。最後の雑炊を食べたいがために鍋料理のオーダーは続いていく。
原発事故で大被害を被った福島県双葉町が大変なことになっている。放射能汚染が酷く役場を臨時に埼玉県へ移したが町長と町議会が揉めている。町長はジュネーブまで行って世界に向けて原発事故は収束していないことを訴えたり、中間貯蔵施設の受け入れに猛反対をしていて、国との対決にはアグレッシブだ。しかし町議会は、町長が仮設住宅にも訪れず町民の意見を国に届けてくれない、と町長に批判的。昨年12月に町議員が全会一致で町長不信任案を可決したが、町長は辞職せずに議会を解散した。もうすぐ町議員選挙になるが、立候補したのは解散時の議員8名だけで無投票当選になる見通しとのこと。そして昨日町長が突然辞意を表明した。辞職の理由は明かさないが、再度不信任案が可決されるのが見え見えだからだろう。町長や町議員が居ようが居まいが双葉町には、福島県内への役場再移転、中間貯蔵施設、区域再編、町民の帰郷や健康問題等々すぐにやるべき課題が山積している。この町長は物事の順番を間違えていると思う。町長がまずやるべき事は、町や町民の現状把握に基づく救済対策だ。それをやらずして町長の責務は果たせない。地に足がついていない只の頑固親爺では町民が不幸になるだけだ。
この4月に定年を迎えるはずだった埼玉県の100人以上の教員たちが、こぞって1月末に辞めることになったらしい。理由は駆け込み退職。問題の発端は昨年11月に成立した改正公務員退職手当法による減給。ケーススタディによると月給40万円の先生にとっては生涯給与が約70万円減ってしまうという話だ。本来教員は何時辞めるのも自由だ。しかし、卒業間近な3年生を送り出すべき教員が70万円のために、残り僅かな日数しかない3年生を見送らずに辞めてしまって良いのだろうか。埼玉県知事は、教員の無責任さに不快感を露わにするものの反面では、損はするが辞めるはずがないと元々高を括っていた様子がありありだ。定年間近の教員たちは、教育そのものに生きがいを感じることなく、単に労働の対価として給与を貰う日々でもあったのだろう。そして超高給取りのテレビのキャスターたちは、高が70万円でと、教員たちを当たり障りなく確実に蔑む。只弱い者が叩かれるというどうしようもない世界だと思う。自分の家は中学生3年の冬休みに世田谷から津田沼に転居した。あと2か月足らずで卒業という状況なので転校せずに、片道2時間近くをかけてとても大変だったが世田谷の中学校に通った。今から考えると長距離通学の苦労を苦労と感じなかったのは、中学校3年生の先生と仲間とは離れなくなかったからだと思う。少なくとも今の中学3年生も、こう思っているはずに違いない。ダサイタマの先生方よ、生徒の心情を察し一考あれと思う。もし君が先生ならば。
麻生副総理兼財務相が、懲りずにまた失言を遣らかしマスコミの攻撃を浴びそうだ。社会保障制度改革国民会議の席で「終末期医療に対する財政負担は極めて大きいので、自分に延命治療しないよう遺書に書いた。そうしないとさっさと死ねずに無理やり生かされる」との趣旨を発言。麻生はマスコミの非難を受け発言を撤回した。しかし本当に撤回が必要だったのだろうか。確かに公の席で「さっさと死にたい」という発言は常識を弁えているとはいえない。だが延命治療については誰しも正しいとも間違っているとも言い切れないのが現実だろう。麻生は場所柄を弁えなかったことを詫びるとしても、発言を撤回する必要はなかったと思う。延命治療を受けるか否かは個人の見識で決まる。我が家では自分もカミサンも延命治療は受けないことにしている。死に損なって周りに迷惑をかけ続ける自分が許せない。ピンピンコロリでいきたいものだ。
安倍政権は事業仕分けを担当してきた行政刷新会議を廃止した。いま事業仕分けで廃止と決めた予算が続々と復活している。元々事業仕分けには法的拘束力がないためだ。掛け声だけは威勢が良かったが、大した歳出削減の実績も残せず、そして数少ない削減案件も復活している。一体あの騒ぎは何だったのだろうかと思う。当時言われたように民主のパフォーマンスそのものでしかなかったのだ。法的拘束力のないことを重々承知で演技したヘボ役者たちは、いまどのような心境なのだろうか。ペロッと舌でも出しているに違いない。無銭飲食者が食い散らかしたようなものと言える。枝野と蓮舫の罪は重い。しかし歳出削減のため事業仕分けそのものは重要だ。安倍政権が為すべきことは、決して事業仕分けを廃止することではない。事業仕分けに法的拘束力を付与して強力に押し進めることこそ責務と言える。一方、社会保障改革会議は野田政権と同じメンバーで継続することになった。数十年先まで考えなければならない社会保障制度の検討は、政権が代わっても継続して結論を出していくことが重要だ。この2つの会議の継続と廃止は安倍政権の1勝1敗になったと思う。
新車発売には、その車のイメージカラーを採用することが定着したようだ。初めてその印象を強く与えたカラーは、日産ティーダのハーベストイエローだったと記憶している。ホンダのインサイトはライトブルー、トヨタのアクアはブルーがイメージカラーで、そのカラーを見るだけでその車をイメージ出来るメリットがある。ところが昨年末にトヨタが発表した新型クラウンは何とピンク。クラウンといえばトヨタの最上級車で「いつかはクラウン」というキャッチフレーズが一世を風靡した時代があった。高級セダンにピンクは似合わない。若者や女性をターゲットにしたとのことだが、行き過ぎだ。とても売れるとは思えない。トヨタの狙いは購入層の拡大ではなく、レクサスの陰に隠れてしまったクラウンに再び脚光を与えるためのショック療法だろうと思う。事実クラウンとは全く縁のない自分がクラウンのことをブログに書いている。トヨタの宣伝戦略の勝利ということになりそうだ。
成人式の日に降った雪が今でも残って困っているが、野球界では雪解けが進んでいるらしい。元プロと高校野球指導の壁の融解だ。プロ/アマの壁を作ったのは、50年以上も前の柳川事件。中日が協約を無視したことによりアマが怒ったことに端を発した。今から見れば非常につまらない事で日本野球発展の足を引っ張った出来事と言える。今までは、この事件のためにプロからアマへの転向に大きな壁があった。プロ転向者は2年以上教員を経験しないと高校野球の監督にはなれなかった。ところが雪解けが進んだ。5日程度研修をして学生野球資格を獲得すれば、翌日から監督就任も可能になる見通しとのこと。松井の星陵高校監督や、桑田のPL学園監督も夢ではなくなってきたようだ。自分が若い時代は、産学共同は悪と言われた。だが今は大学が如何に産業に寄与すべきかという時代に変わっている。野球界は今になってようやく産学共同は悪という悪夢を振り払う決心が出来たらしい。諸悪の根源は、頑なに我が組織を守るという誤った忠誠心にあることは間違いない。組織の上にはどういう理念があるのかを考えれば、自ずと答えは出てくるはずなのに。今は正に上の理念を見ることの出来るトップが求められている時代だと思う。
全豪テニス大会では日本選手が破竹の勢いだ。錦織は3回戦を突破してベスト16入りし、クルム伊達はシングルスも混合ダブルスも3回戦に進出し、そして森田も3回戦に進出した。錦織の活躍は言うに及ばず、42歳の伊達の活躍には敬意を表したい。ところが同じテニスでも全く違う次元で頑張っているクラブもある。今日は自分がお世話になっているテニスクラブの平日参加者有志による新年会があった。10時過ぎから12時半頃まで練習をこなし、その後2時間程度練習試合を堪能し、2時半過ぎ頃から新年会になった。いつものことだが、女性が得意の料理を持ち寄り男性がアルコールを持参する。このクラブの女性は特に料理が得意のようだ。20名程の人が取り囲むテーブルの上には食べきれそうもない御馳走が豪華に並ぶ。取り皿には数々の料理が盛り付けられる。酒はスパークリングワインから始まり赤白ワイン、日本酒などなどアルコールラッシュとなる。良い意味での酒池肉林だ。いつもこのテニスクラブでいいなと思うことは、オレガ、オレガの人間がいないこと。しかし参加するための責任は果たす。いつも相手の立場を考えて振舞う人が多いのだ。自分の主張を一歩引くことが相手の主張を和らげることになると言うことを暗黙の裡に知っている。全豪テニスの厳しい戦いの裏には同時に、和やかなテニスの戦いも続いているということだと思う。
大胆にも初釜の日に3人の先生を前にして薄茶点前を行った。細かい扱い方などに多くの指導を戴いたが、一通りの手順は覚えた通り熟すことが出来た。初めての経験としては、自分自身も納得し先生方からもお褒めの言葉を戴いた。まさにテレビ番組に出てくる幼児の「初めてのおつかい」のようだった。薄茶点前の動作を箇条書きにすると約50ある。ただ単に先生の動作を見ていても簡単には覚えられない。言われたようにしても次の日には忘れてしまう。本を読んでも直ぐには身に付かない。そこで昔身に付けた勉強法を思い出し実践してみた。まず教えてもらったことと本の内容を、箇条書きにしてノートに書きだす。声に出して読んでみる。箇条書きの一つひとつの動作を目をつぶって頭の中に描く。箇条書きの順番を覚える。そして何回も読んでは目に焼き付け、目を閉じてイメージトレーニング。今日の朝になって何とか全部を頭の中で描く事が出来た。帛紗捌きは回数をこなした。そして自分を信じ初めての点前に臨んだ。最後に「1年間続ければ立派に身に付くでしょう」と先生のお褒めの言葉。付け焼刃ではあるが、いいスタートが切れた。始め良ければ全て良し、を願いたい。
ドリームライナーが連日のように世界を騒がせている。ドリームライナーとは米ボーイング社の最新鋭航空機787型機。中型機ではあるが軽量化、エンジンや空力の改善により航続距離を長くしたのが特長の次世代機だ。受注は既に800機を超えている。開発の35%は日本企業が担当し、胴体や主翼などは三菱重工、胴体の大部分の素材は東レのカーボンファイバー、バッテリーはGSユアサのリチウムイオン電池という具合だ。ところが2011年に就航以来事故が続いている。燃料漏れ、潤滑油漏れ、バッテリー火災、操縦席の窓ガラスの破損、ブレーキの故障などが毎日のように発生し、今日は何と操縦室に煙が充満し高松空港に緊急着陸した。これらの不具合は全て重大事故につながる可能性がある。日本も米国も国が調査に乗り出したが、即刻運航停止の処置をすべき事柄だ。ボーイング社CEOの安全と言う言葉を盲目的に信じていると、そのうち乗客は二度と目の覚めないドリームを見ることになるかもしれない。くわばら、くわばら。
もうすぐ初釜の日。雪が残る風情のある庭を見ながら初めて薄茶点前の練習をした。先生は88歳の義母、師匠でもある。一通りの流れを座学で習った後、実技演習に入った。おじぎの仕方、襖の開け閉めから始まり、茶巾の扱い、帛紗のさばき方、歩き方、茶道具の扱い方置く位置等々覚えなければならないことが盛り沢山だ。あっと言う間に1時間が過ぎた。終わり近くになって正座の向きを少し変えるところがあるが、その時になって初めて足が全く動かないことに気付いた。感覚がなくなるほど痺れたのも、痺れに気付かなかったのも生まれて初めての経験であった。暫しの休憩を経て何とか最後までたどり着いた。茶道は作法を大切にするが、それを支える苦しみもあることを発見したような気がした練習初日であった。
マラソンで名を馳せた瀬古が所属するSB食品が廃部になり、瀬古一派は新設のDeNAに移籍する。SBは全日本実業団対抗駅伝競走大会で4連覇を達成した輝かしい戦績はあるものの、最近では1999年の2位入賞を最後に低迷を続けている。廃部もむべなるかなと思う。瀬古は箱根駅伝や実業団駅伝の解説をしている。毎年思うことだが、瀬古は解説が下手だ。自分の所属するチームと早稲田のことしか把握していない。アナウンサーの説明に肯くだけで、酷い時は「そーですかー」と答える始末。専門家としての技術的な解説もない。素人でも言える「ここが頑張りどころですね」程度だ。要は解説者として全く勉強していないのだ。監督としても解説者としても失格であることは間違いない。しかしテレビ局は瀬古を使い続けている。「昔の名前」を頼りにもたれ合いの構図が見える。瀬古がDeNA補強のため各有力選手に声を掛けているらしい。公務員ランナーの川内は誘いを断った。賢い選択だ。日体大の服部や東洋大の設楽兄弟らもターゲットになっているらしい。賢い選択が望まれる。サッカー界では木村が瀬古と似ている。名選手必ずしも名指導者になるとは限らない。昔の名声にしがみ付き指導者として勉強する努力が欠けているように思えてならない。指導者とは常に一歩踏み出す努力の上に成り立つものだと思うのだが。
今から60年近く前に、明治生まれで厳格な父が涙を流したことを見たことがある。時代劇のチャンバラが放映されている映画館での出来事だ。ふと横を見ると父が涙を流している。子供ながらに、どうして泣くのと聞いてみた。父は「人が切られて死んで逝くからさ」と答えた。しかし当時の自分には、父の本当の気持ちを理解することは出来なかった。今から思うと戦争を体験した父は、理由はともあれ人が死ぬということに無情を感じていたに違いない。その結果の涙であったと思う。昔の人は苦労した。その反面、現代の人は自分を含めお気楽だ。今日テレビで日体大が得意とする「団体行動」の放映があった。小学生が器用に一糸乱れず団体行動を演技する。勿論、小学生の皆々は目が輝いている。その目の輝きに感動し、思わず目頭が熱くなりティッシュを探すはめになった。このように泣くということは、時代で変わる。人が死ぬことで涙する時代から、子供が一生懸命に頑張ることに涙する時代へと変わりつつある。何故だか分からないが、生きていて良かったと思う出来事であった。
大阪のバスケ部主将の高校生が指導者の体罰を受けた結果、不幸にも自殺したとのこと。昔は、スポーツとは、根性とは、と言うと少なからず暴力団紛いの指導者がいるのが当たり前だった。しかし時を経るとともに、今では何が何でも暴力を否定するのが常識となっている。そこで昔と今の高校の暴力は何が違うのだろうかと考えてみた。簡単に言うと、昔は高校生を育てるために敢えて暴力をふるったように思う。しかし、現代の先生である指導者は自分の実績を残すために生徒に対し蛮行を振るっているようにも見える。単純に言うとこれが結論だ。自分はイジメを受けたことはあるが生涯体罰を受けたことはない。しかし自分の長男が軽い体罰を受けたのを見たことはある。少年サッカー団での出来事だ。練習もままならず負けてばかりいる長男たちに、活を入れるためコーチがスリッパで子供たちの頭を引っぱたいていた。そして罰は1周400mのグランドを5周。ひどいコーチだとは思ってはいたが、結果として長男はサッカーも上手くなったし根性も基礎体力もついた。今はその根性と体力が社会人として役に立っているようだ。その後コーチとは年賀状を今でもやり取りしている。体罰も捨てたもんじゃない。要は「過ぎたるは及ばざる如し」と言うことだろう。格言は真理を突いている。少なくとも指導者になろうとする者は諺を勉強し、それを指導の座右の銘にすべきだと思う。大阪の指導者は果たしてどのような格言を信奉していたのだろうか。唯我独尊か。
熊本県五木村は議員の活動を評価する成果主義制度を廃止したとのこと。3年前に全国で初めて導入した制度だったが、外部の評価委員による公正な評価が難しく行き詰ったらしい。会社員であれば仕事の成果は厳しく査定され、それが給与に反映されるのが一般的だ。同時に上司も部下を正しく評価出来る能力があるかをチェックされる。自分が初めて複数の部下を持った時、部下の仕事はそれぞれ違うので順位付けなど出来る訳がないと思っていた。ところが人事部から必ず順位付けするよう指示を受け、悩みに悩んで考えると、目標と成果と能力という観点から順位付けが可能であることを経験した。最終的には自分の部場だけでなく複数の他部場も一緒にして順位付けすることになるが、不思議なくらい部場長たちの総合評価は一致した。同じ階層であれば仕事の種類は違っても横断的な評価は可能といえる。議員活動の評価も当然可能なはずだ。議員の評価法が全国で求められている。五木村は議員の成果主義制度の内容と廃止するに至った反省を全国の県市町村に公表すべきだと思う。五木村には評価法確立のための礎となる責務があるはずだ。
官邸主導を目指す安倍政権の有識者会議が乱立している。産業競争力会議、安全保障の再構築懇談会、教育再生実行会議、歴史認識検討会議等々華盛りだ。これで物事が公明正大に決まるのかというと決してそうではない。会議のメンバーは主催者が選ぶので、主催者の思惑通りの結論が導かれることになる。主催者が有識者会議を開く狙いは、結論の権威付け、結論有りきのカムフラージュ、論理性の後付、責任逃れ、ガス抜き、先送りするための時間稼ぎなどいろいろある。日本の有識者たちは、有識者会議メンバーに選ばれたからといって能天気に喜んではいけない。この会議で有識者の自説が全て反映されることはない。寧ろ初めに設定された結論を導き出すために、自説を捻じ曲げられる苦痛を味あわされることになる。自説に強い信念を持つ人は参加したことを後悔し、自説のない人は有識者として参加出来たことを喜ぶことになる。有識者とは辞書を引くと「学問識見が広く高い人」とある。高くない人は有識者ではない。かくして有識者会議は、有識者ではないメンバーが大部分を構成することになる。いっそ会議名を博識者会議と変更した方が実体に合っているように思う。
今年の米国野球殿堂入りの選手が明日発表されるらしい。最多本塁打762本のボンズ、通算354勝のクレメンス、通算609本塁打のソーサが候補に挙がっている。しかし3人とも薬物疑惑の張本人なので、殿堂入りは米国でも危ぶまれている。特に潔癖症の日本では推す人もいるはずはない。このニュースを聞いた時、自分も日本人なので当然そう思った。しかし、しかしである。そもそもスポーツを究めるには心技体。心を鍛え、技を鍛え、体を鍛えなければならない。MLBの選手になるだけでも大変なのに、ましてやタイトルを取ろうという選手にはどれ程の努力が必要なのか想像を絶する。一方普通の何処にでもいるスポーツマンでも常に体を鍛えている。第一は練習だが、練習に耐えるため飲み物や食べ物を厳選する。ハートを強くするためには宗教にはしる者もいる。基本的に極普通のスポーツマンと殿堂入り候補者との違いは殆んどない。あるとすればルール上規制されている薬をプロが飲むか飲まないかという違いだけだ。規制されている薬物は寿命を短くする恐れが多い。プロはギリギリのところで成績と寿命を秤にかけているのだろう。そもそも体だけを鍛えても成績を残すことは出来ない。このようなプロ選手に「ルール違反だからダメ」などとは言いようがない。従って、自分はポンズもクレメンスもソーサも目出度く殿堂入りしてほしいと思う次第。明日のニュースは誰に微笑むのか楽しみだ。
福島原発事故以来、再生可能エネルギーが次々と実用化されてはいるが色々問題もあるようだ。太陽光発電は枝野前経産相が固定価格買い取り制度を導入し10年間42円/Kwという破格の価格設定をしてしまった。このため濡れ手に粟となるメガソーラーに多くの企業が殺到し乱立状態だ。太陽光発電は発電コストが非常に割高で効率も悪い。デフレに苦しむ国民に更なる不要な電力料金負担を強いた。民主枝野の失政といえる。バイオ燃料は、植物が成長する時は二酸化炭素を吸収し、燃やすと二酸化炭素に戻るので、二酸化炭素を減少させるには良い方法と思われていた。ところが原料のポプラやユーカリは成長時に高濃度のイソプレンを放出し、それが反応して有害なオゾンを生成することが最近分かったらしい。欧州の大規模な植物栽培場では問題になりつつあるとのこと。風力発電は風任せなので日本には向いていないし、低周波騒音の大問題が有る。一方日本の八丈島は5年後に需要の8割を地熱発電に切り替える計画を発表した。火山列島の日本には地熱が豊富で、理論的埋蔵量は世界の3位。地下3000mから熱水を汲み上げ、蒸気でタービンを回し発電し、熱水は地下に戻すので原理的にクリーンだ。国立公園内での建設規制や温泉地への影響の有無など解決しなければならない問題もあるにはある。しかし日本が開発に最も力を入れるべきエネルギー源であることは間違いない。だが利権狙いの政治家は興味を示さない。まさに今こそエネルギー問題の民間識者が声をあげる時だ。
今年も早1週間が経とうとしている。今日は七草粥の日だが「人日(じんじつ)」という五節句の一つであるということを、恥ずかしながらこの年齢になるまで知らなかった。人日(1月7日)上巳(3月3日)端午(5月5日)七夕(7月7日)重陽(9月9日)を五節句と言うらしい。ひな祭りや鯉のぼりや七夕は有名だが、人日や重陽は殆んど聞いたことがない。五節句とは古来中国から来たもので、人日の節句の日には犯罪者に対する刑罰は行わないことにしていたようだ。それが日本では江戸時代に七草粥を食べて人日の節句を祝う慣習になったとのこと。七草粥は一年の無病息災を願って食べられる。勿論正月のおせち料理やお神酒で弱った胃を休める為でもあることは間違いない。重陽の節句とは、いわば敬老の日と同じ意味合いがあるらしい。日本は世界で一番乗りで超高齢化社会に突入しつつある。人日の節句と重陽の節句が、桃の節句以上に脚光を浴びる日が来るのも、そう遠い将来ではないような気がする。
年末年始を海外で過ごした人たちの帰国がピークを迎え、今日一日で約5万人が入国するらしい。「楽しかった、思い出になった」と帰国組は明日への活力を養ったようだ。国内でも同様にリターンラッシュが続いている。しかし一方では正月休みが終わり再び家族と離れ海外の仕事に戻る者もいる。長男はシンガポールに帰っていった。昔から日本の年末年始は帰郷ラッシュとリターンラッシュの繰り返しだが、自分は東京生まれで帰る故郷はなかった。年末になると、故郷に帰りますと言う田舎の人が生き生きとしているのが羨ましかったのを思い出す。年末年始の大移動にはいつもこう思う。帰郷した者は勿論家族からの思いやりや暖かさを受け活力を感じて帰ってくる。そして海外旅行者は、海外を楽しむために行くだけではなく、日本に帰ってきたことに喜びを感じ、そこから活力を得るための旅行をしているように見える。行くところと帰るところがある人はいい。温故知新か、はたまた温新知故か。
富士山に登るには料金が必要になるかもしれない。静岡県と山梨県で協議を進めているらしい。富士山の世界遺産登録は今年6月に開催されるユネスコ世界遺産委員会でその可否が決まることになっている。世界遺産ともなれば観光客が激増し環境の悪化は間違いがないからだ。富士山美化と言えばアルピニストの野口さん。以前から野口さんは明峰富士の汚さを嘆いていた。この際時系列で俯瞰してみた。昔の富士山は登る人も少なく綺麗だった。山好きではない登る人が増え富士山はゴミと汚物の集積場と化してきた。それを嘆いた野口さんが富士山美化の口火を切り実行に移した。その美化運動が実を結び世界遺産に登録しようとの機運が高まった。登録が申請され、あと半年となったところで行政が名目は兎も角入山料を取ろうという話が持ち上がり今に至っている。この筋書きは何か変だ。行政がまず第一にやるべきことは、野口さんとタイアップし、登山者のマナー教育と環境保全投資のはずだ。県には初めから富士山を汚い山にしないことが故郷や日本を守る義務でもあった。そこを飛ばして、教育は野口さんに負んぶに抱っこ、しかも世界遺産になれば入山料を取ろうという根性の悪さには恐れ入る。知事たる者は県のやるべき仕事とは何なのかを今一度再考する必要があると思う。
出口の見えない問題は、如何にして解決したらよいのだろうかと思うことがある。この種の問題は数多いが福島原発事故による放射能汚染問題もその一つだ。日経の1面には「東電が福島本社を発足し復興業務に全力で」という記事がある一方、放射能汚染で埼玉県に避難している福島県双葉町は「帰還目標は30年後」と宣言した。聞くに堪えずやりようがなく痛々しく気持ちが落ち込む話だ。そして矢板市にしろ高萩市にしろ中間貯蔵施設すら決まる気配はない。双葉町は「もう充分汚染されたので貯蔵施設など作ってこれ以上故郷を汚さないでくれ」と言う。矢板市は「高濃度の放射性廃棄物を持ってくるとは言語道断」と反発している。双方の言い分は誰でも分かる。しかし放射性廃棄物の処理方法の第一原則は拡散させないことだ。この原則に従えば双葉町で貯蔵施設を受け入れることがベスト。恐らく政府もマスコミも国民も皆そのことは分かっているが自らは言い出せない。そこが最大の問題で、出口を見えない問題にしてしまっている。この問題を解くキーは「痛みを分かち合う」ということだ。汚染に見合う痛みを伴う援助を全国の市町村が負担するという仕組みが作り出せないのだろうか。辛口で双葉町に貯蔵所設置を促し、それを負担する仕組みを提案する大臣の出現が望まれてならない。しかし自民に替わったといっても石原では可能性はゼロに近い。解決は遠い。
カタール衛星テレビのアルジャジーラが米国に進出することになったらしい。画期的な出来事だ。中東は近くて遠く、遠くて近い。昔から日本はイラクやイランとは仲が良く親交が深かった。日本人に親しみを持っていたイラク人やイラン人も残念ながら今では疎遠の関係にあるようだ。疎遠となった要因は米国の中東政策にある。石油の決裁権をユーロからドルに無理やり変えるため米国はイラクを攻撃し、それに日本は加担した。疎遠になるはずだ。中東はかつてペルシアが栄えていた。昔のペルシアとは今のイラン。日本はペルシアともイランとも仲が良かったが米国の戦略変更で一見敵対するようになっってしまった。そんな状況を日本に伝えたのもアルジャジーラだ。当時中東を知る日本人は殆んどなく、アルジャジーラのニュースは珠玉の如く新鮮で光り輝いていた記憶がある。宗教対立が更に激しくなる今この時に、アルジャジーラが米国に進出するということは、歴史的にも価値があると思う。考えてみれば、キリスト教もイスラム教もそしてユダヤ教も同じ神を祀っている。信じるものは同じで、信じ方が少し違うだけ。骨肉の争いは必然なのだろうか。数歩下がって見渡すと、心の広い仏教の教えが世界を救うように思えるのだが。
日本では右傾化を懸念された安倍政権が、韓国やロシアとも角を立てずにスムースなスタートを切りそうな気配だ。いまは猫を被っているだけかもしれないが。米国では大晦日に「財政の崖」をぎりぎり回避する法案が成立した。回避とは言っても実質的な効果は僅かでパフォーマンスとしか言いようはなく、結局米国は大不況に陥るかもしれないが。北朝鮮の金正恩は異例ではあるが国際的な孤立から脱して経済建設を目指す旨を表明した。例年の如く北朝鮮特有のアンチパフォーマンスかもしれないが。本音であれパフォーマンスであれ、仲良く手を手を取り合って建設的に物事を進めたいと言う表明には拍手を送りたい。何か今年は良い事が沢山訪れるような気がしてならない。「かもしれないが」を払拭して「始め良ければ全て良し」として「瓢箪から駒」となる世界を願いたいものだ。初夢を正夢にする努力が必要だと思う。
今年はW.T.ガルウェイが約30年前に考案したインナーゲーム理論をベースにしてテニス、ゴルフそして物書きに取り組むことにした。インナーゲーム理論は単純明快だ。人間は本来才能を持っている。才能をフルに発揮出来ない理由はそれを阻止する人間の心理的な癖があるため。その癖さえ乗り越えられれば才能をフルに発揮出来るようになる、というもの。この理論を信じて実行することにした。事の発端はフィーリングテニスというテニススクールのホームページを見たことにある。このスクールはインナーゲーム理論を上手く発展させテニスの技術向上を実現させている。要はフォームを意識せず常にボールを見る目を養うこと。一方ゴルフはボールを見るなというので、全く異なるようだが実は中身は同じ。スイング中に体の動きを考えてはいけない。ヘッドの位置だけを考え、トップとインパクトさえ意識すればスムースに体は動くという。テニスもゴルフも実験済みだ。効果はある。あとは身に付けるだけ。今年はこれを頑張ることにした。そう考えていると最も力を入れたい物書きについても当てはまるはずだと気付いた。どうなることやら分からないがこれから1年試行錯誤してみようと思う。全ての結論は年末に出る。