第6回日経星新一賞に応募した作品です。

 

 

 

Invisible World

 

 

 

 

 

この地球上の人口がたった半分の30億人にも満たない世界に変わってしまった。60億人もいた世界があったことが嘘のように思える。世界核戦争が起きた訳ではない。死に至る疫病が大流行した訳でもない。世界中をエクソシストが徘徊しているかのように、奇妙で恐ろしい現象が次々起きる。椅子が飛び交い、電灯は無人で点滅を繰り返す。テニスラケットがマジックのように宙を舞い、しかもボールを飛ばし打ち返す。不思議なことに無人の工場では次々と順調に製品が生産されている。でも、残された30億の人々は、憔悴しきっている。生き残った人々は、こんな世界になるとは思わなかったと嘆いている。

 

 

 

 

 

東 明人(ひがし あきと)は大学で化学を専攻し、化学系大企業への就職を目指したが生憎就職氷河期に出くわした。大企業を諦め仕方なく大学に残り無給の研究生になった。東明人は仲間内ではアキトと呼ばれている。アキトは元々化学が好きで化学だけは成績が良かった。まさに好きこそものの上手なれの典型だった。しかし、研究生といえども人生の競争レースの真っ只中にいる。元々努力家だから地道な努力を重ねた結果、化学合成のスペシャリストと知られるようになり、助教になった。極めて基礎的な化学講座を担当しているが、学生たちの欠席は多く、たとえ出席してもスマホに夢中でろくに講義を聴こうともしない。受け持った講座に対しても当初の情熱は冷めて力が入らなくなってきた。助教になったものの時間を持て余していた。趣味は外国語とアンティーク。暇をもっけの幸いと外国語の授業に参観するのが日課になった。勿論大学職員の特権を使い只で受講を重ねた。お陰で英語は当然のことフランス語、ドイツ語、ラテン語、ロシア語、中国語、ハングルなど各種の外国語を辞書があれば真面に訳せるほど身に付けた。

 

教授いや准教授にもなれなかった負い目を持ったまま、結局助教のままで定年を迎えた。平凡な人生を送ってきたアキトは今後も平凡な第二の人生しかないと思っていたのだが。

 

 

 

 

 

定年後、夢にまで見たイギリス観光に出かけた。ケント州のある町でアンティークを堪能するのが目的だ。その町にある駅馬車という名の宿を予約した。格調の高いアンティークではなく、一般庶民が何百年間も使い続けた民芸品に近いアンティークが多くあることを売りにしている。ロンドンから鉄道とバスを乗り継ぎその町に着いた。

 

駅馬車の外観は相当古い石造りで蔦が絡まっている。まるでアガサ・クリスティーのマープル叔母さんが住んでいるみたいな家だ。イギリスのこの手の家は、見かけは古いが内部はリニューアルされていて意外と近代的な家が多い。だが、駅馬車はフロントがリニューアルされてはいるものの、談話室も食堂も客室も昔のままで、しかも使い古されたアンティークが所狭しと、至るところにぎっしりと埋め尽くされていた。アンティークのテーブル、椅子、チェスト、食器や小物に至るまで見放題で触り放題だ。アキトは遥々イギリスに来た甲斐があったと喜んだ。だが、部屋に通されアンティークの椅子に座った途端、かび臭い、埃臭い空気が舞い上がった。これではさすがのアンティーク好きも閉口してリピートするはずがない。この宿が寂れている理由を納得した。

 

部屋を見渡すと、壁の一面に書棚がある。かびの臭いに耐えながら近くに寄って眺めると、意外に化学や医学関係の本が多いのに気付いた。科学とは全く無縁と思われるイギリスの片田舎にこの種の本があることが奇妙に思えた。一つの背文字が気にとまり本を取ろうと手を伸ばした瞬間に思いがけないことが起こった。

 

本棚の脇からネズミが飛び出したのだ。アキトはびっくりし本を抱えたまま床にひっくり返った。でもネズミではなかった、よく見るとウサギだったのだ。アキトは、自分が「アリスの不思議な世界」に引き込まれつつあるのかとドキッとした。巣穴に落ちずにラッキーだと思った。

 

「びっくりしたな~、もう」と呟くと同時に我が手に本があることにもびっくりした。分厚い本が3冊、茶色の革ひもで束ねられている。アキトは革ひもを解き、その内容を恐る恐る覗いてみた。表紙には微かにグリフィンという文字が読み取れる。ページには暗号のような記号やロシア語、ギリシャ語などが書かれていている。外国語に堪能なアキトはざっと大まかに字面を読むことは出来た。でも辞書の助けを借りなければ細かい内容は理解出来なかった。しかし、その本の化学的な表現がアキトの心に火を点けた。アキトは「何かある」と感じた。子供のころ、何処かで見たことがあるような気がした。何か因縁めいたものを感じた。アキトは、この本は何があっても絶対日本に持ち帰って解読しなければと心に決めた。

 

 

 

 

 

当日の宿泊者はアキトを含め3人しかいなかった。中国人とトルコ人と日本人のアキト。アンティーク好きが唯一の共通点だった。ディナーは各テーブルに各人が一人ぼっちで座り無言で食べた。孤独のグルメではなく孤独なディナーだった。

 

ディナーの後3人は談話室に移り、片言の英語でコミュニケーションを始めた。それを横目で見ていた宿の女主人は、不自由な会話よりもゲームの方が打ち解けやすいのではと考えた。女主人がカード遊びをしようと言い出した。女主人は「ここはイギリスだから勿論ブリッジね」と言い、ブリッジをすることになった。アキトはブリッジならばラッキーと思った。ところが、ブリッジはブリッジでもアキトが得意とするセブンブリッジではなく、コントラクトブリッジだった。でもアキトは怯まなかった。英会話教室のイギリス人の先生からある程度の手ほどきを受けていたからだ。

 

イギリス人は賭け事が大好きだ。何でも賭けの対象にしてしまう。女主人が、何か賭けようと言う。女主人は「私が勝ったら半額でもう1泊すること。もし私に勝ったら、そのお方にはお気に召したこの宿にある備品を贈呈するわ」と自信満々に言う。3人ともアンティークには目がない。合意してコントラクトブリッジが始まった。結局、アキトの本欲しさの執念が功を奏しアキトは勝つことが出来た。アキトは勿論例の「革ひもで縛られた3冊の本」を所望した。アキトは有頂天になり、心の中はすでに本を解読したい一心で一杯になっていた。アキトは早く帰国して、解読と実験に取り掛かりたいと願った。アキトは当然翌朝一番で駅馬車を後にして帰路についた。

 

 

 

 

 

アキトの解読は順調に進み、SF小説「透明人間」が作り話ではなく、実話であることを知った。革ひもで縛られた3冊の本の存在、グリフィンという本の表紙の名前、駅馬車という名の宿が実在していたからだ。帰国後の時間をほとんど本の解読に費やし、とうとう人間の透明化に関するレシピを得ることが出来た。教授になれなかった負い目が人体透明化実験にも異常なほどの執着心をみせた。元々化学実験のスペシャリストだ。レシピを忠実に守り透明人間化剤の合成に成功した。早速自ら試してみた。SF小説「透明人間」に書いてあるほどの苦しみは無く、意外にあっさりと透明人間になれた。アキトは透明化した自分自身にワクワクした。じっくり我が手を見た。でも見えない。まるで狐に鼻を摘ままれたような気分になった。早速服を脱いで鏡の前に立った。何も映らない。初めて自分が透明人間になったことを実感した。

 

でも、裸は寒かった。だがその寒さが、今この世の中に透明人間は自分一人しかいないのだという感動をしみじみと体中に伝えさせた。しかし、この時アキトは透明人間が必ず遭遇するであろう困難さは知る由もなかった。

 

 

 

 

 

アキトは透明人間にしか出来ない仕事とは何かを考えていた。

 

泥棒や覗き見は仕事ではないし、倫理に反するので初めから除外した。

 

しかし、透明人間になってみたものの実際になると想像以上に不便なことを実感した。

 

人前では裸で居続ける必要がある。僅かな寒暖差でも風邪を引き易い。しかも、もし人前で不透明に戻ってしまったらという不安がいつも心を過ぎる。それだけでも不安症になるほど心が揺れた。

 

通りを歩くとやたらと人がぶつかってくる。自分には相手が見えるが相手からは自分が見えないからだ。外出時は見える相手を常に意識して避けるための行動を取らなければならない。相手が犬や猫であっても同じだ。

 

コップを上手く取れなくなり、家具に足や体をぶつけることが多くなった。自分の手や足が見えないからだ。今まで目から入る情報がいかに有効であったかを実感した。

 

静かな場所では見えなくても相手に気配を気付かれる。人間は元々独特な臭いを持っているし、食べたものの臭いも発散する。東南アジア系の人はエスニックな臭いがするし、日本人は柑橘系の臭いがする。今まで日本人は殆ど臭いがないと思っていたが間違いであることを気付かされた。食べ物も大好物のニンニク料理は敬遠せざるを得なくなった。

 

体を動かせば空気が微かに動く。敏感な女性はすぐに察知する。人が傍にいる時は、見えるはずはないのにジッと潜んでいなければならないことに苦痛を感じた。

 

実際に透明人間になるとデメリットだらけなのだ。

 

その時たまたま遠くのラジオからPKL48の曲が微かに聞こえた。曲は「透明人間ですよ」。

 

「スプーンを曲げたりねじったり 念力ブームも ベッドがガタガタ動くのも すべては私 透明人間なのです」

 

アキトはこれだと思った。

 

「マジックだ!」

 

 

 

 

 

透明人間と言えば定番は間違いなくマジックを連想させる。でも、客の前で単にボールを浮遊させても客は不思議がるだけで、自分を称賛してくれない。

 

不透明人間を雇って、マジシャン役にして自分がボールを操れば客が驚くマジックが出来る。だが、それでは自分は単なる裏方だ。名声を得るのは雇った不透明人間になってしまう。その方法では自分の功名心を満足させることが出来ない。

 

今は映画でもメイキャップ技術が進歩している。顔に化粧をしたり、ゴムを張ったらどうだろうか。いや目や鼻の孔や口の中まで化粧は出来ない。口を開ければ、すぐに中身が透明であることがばれてしまう。

 

では人間そっくりなマリオネットを作り、巧妙に操ることが出来たらどうだろうか。見えない透明人間が見える人間モドキを操ることこそ、透明人間が持ち前の能力を発揮する場だと思い至った。

 

まさに逆転の発想だ。

 

アキトの血が滲むような特訓が始まった。操る糸は不要だ。アキト自身の手足で操るからだ。鏡に映しながら練習を繰り返した。鏡にはマリオネットしか映らない。自分の体は映らない。それが功を奏した。マリオネットの微妙な動きまでコントールすることが出来るようになった。努力の末マリオネット使いの達人に成長した。初めは地方の小劇場での公演から始まり、好評を得るたびに中央へと進出した。ついに日本のナンバーワンとなり、海外への進出も出来るようになった。更にとうとう世界最高峰のマジックの殿堂である「マジック城」の常任マジシャンまで上り詰め名声と富を得た。

 

名声を得たのは人間モドキだが、これは自分の分身だと自分に言い聞かせた。アキトは満足した。とうとう宝の山を見つけたのだ。

 

アキトは富の一部で瀬戸内海の無人島を購入した。港を整備し、化学実験室や生活に必要な設備を整え、島への不法侵入が起きないよう厳重なセキュリティーを敷いた。信用のおける非透明人間の秘書や整備士や身の回りをする世話人を雇い、島では透明人間はただ一人だけの生活が始まった。島の生活は透明人間のアキトにとって快適だ。アキトはもうこの島から2度と出ることは無いだろうと思っていた。

 

透明人間として生きて行くことが、不安から確信に変わった。

 

しかし、成功体験が、その後の人生にどのように影響を及ぼすのかは誰にも分からない。

 

 

 

 

 

自分が成功したのだから、ほかの誰でも上手くいくに違いないと思い透明人間化剤を売り出すことを思いついた。

 

だが現実に透明人間はいくつもの問題を抱えている。まずはその問題の解決が先決だと思った。

 

世の中には、透明人間化を望む人が多そうだが何故か売れそうもないと思った。透明人間は裸でいなければならないことが最大の欠点だからだ。ものを食べると消化されるまで見えてしまうのも欠点だ。ハリー・ポッターに出てくる透明マントのようなものを作れば解決出来るはずと思いついた。

 

透明な服を作ることが出来れば、裸の諸問題が一挙に解決する。風邪も引きにくくなり、ものを食べて未消化でも見えることはない。

 

アキトは透明化が出来る布の開発に心血を注ぐことにした。

 

まずは現在の透明化に関する最先端技術の調査だ。

 

中国では、量子透明マントなるものが発明されている。西京大学の大学院生が設計した透明マントを世界的な光学専門誌に発表した。その原理は、物体を特殊な強誘電体材料で包むと、光が通過する際に波長が変化しないため物体が「透明」になり、人間の目には見えないというもの。これまでの技術は特定の限られた波長でしか効果がなかったが、今回の技術は様々な波長にも自由に対応出来るという。この透明マントを使ったデモンストレーションはYouTubeで見ることが出来る。中国は軍事利用を考えているようだ。

 

イスラエルの大学でも「Siナノスペーサーを用いた複合プラズモン導波路」という次世代技術に基づいて透明マントを試作している。論文は学術誌に掲載された。

 

カナダでは企業が光学迷彩素材を開発した。この技術は量子ステルスと呼ばれ、光を屈曲させて人や物を透明に見せる。対象物を目に見えないようにするだけではなく、赤外線スコープやサーマルビジョンでも見えなくし、影も無くすという。この技術はすでに米国の軍事組織にも紹介されているという。

 

これらの技術は全て軍事利用が目的だ。

 

アキトは透明人間向けの平和利用を考えた。

 

アキトは透明化の原理を理解した。

 

人間の場合は、人体を空気と同じ屈折率にすることが重要だった。

 

透明布の場合は、可視光線が自由に屈折し波長を変化させずに透過する物質を表層に設ければ良いことが分かった。

 

原理原則が分かれば、研究はスムースに進む。後は時間が解決する。アキトは連日連夜、眠る時間も惜しみ研究に没頭した。そして遂に極めて透明化率の高い布の開発に成功した。

 

 

 

 

 

アキトはマジシャンで得た富を元手にベンチャービジネスを立ち上げた。透明人間化剤と透明布のセット販売を開始した。出来るだけ多くの人に透明人間になってほしいと願い、価格を極めて安価に設定したため、透明人間化剤と透明布のキットは飛ぶように売れた。瞬く間に日本のネット販売の売り上げの頂点に立った。この布の開発で、爆発的に世界中で透明人間化が進むはずと自信を持った。全世界への販売を考えた。世界の各国へライセンスした。全世界で爆発的に売れるようになった。

 

そして誰も経験をしたことのない透明人間がメジャーな世界が拓かれたのだが。

 

 

 

 

 

世界は透明人間で溢れかえる社会になった。でも、透明人間には、他の透明人間を見ることが出来ない。透明人間同士は互いの存在が分からないから衝突を回避出来ない。衝突事故死が多発している。交通事故や転落死も多い。しかし透明なので損傷状態が確認出来ず手術をすることも出来ない。死んでも姿が見えないので死体は放置されたままだ。SF小説「透明人間」では、死ぬと不透明に戻ることになっているがフィクションだった。実際は透明のまま変わらない。人口の多い都会は辺り一面に死体が散乱し死臭が漂っている。人口の半分以上が透明人間になった世界は見えない地獄絵そのものだ。

 

お互いに見えないのでレーダー探知機を装着し始めた。探知機だけが宙をさ迷っているように見える。まるで人間の行動が蝙蝠のように音波に頼る生活になってしまった。中には己の体にペンキを塗りたて可視化をはかる者まで現れた。結局、普通の不透明な服を着ることで自己の存在を明らかにすることが多くなった。しかし、透明では身分の認証が出来ない。真面な職業に就けなくなり、年金も支給されない。生活は苦しくなるばかりだ。

 

透明人間たちにとって唯一の楽園は、他の透明人間が立ち入ることが出来ない限定された空間だ。そこでは思い切って羽を伸ばせるしスポーツも出来る。塀で囲まれたテニスコートが盛況だ。コート内には2人しかいない。しかも相手はネットの向こう側だから衝突することもない。伸び伸びとテニスを楽しむことが可能だ。

 

だが、このような環境でスポーツを楽しめるのは、何某かの事業で富を得た者だけなのだ。透明人間の増加により、貧富の格差は益々広がっている。

 

透明人間よりも裕福なのが非透明人間だ。傍から見ると透明ではない人間が異様に見えてくる。既に透明ではない人間は「不透明人間」とさえ呼ばれるようになった。やっかみでもあるし、希望の象徴にもなっている。

 

透明化すると人間性も変質する。誰からも見えないという安心感が悪魔を誘うのだろう。今まで聖人君子のようだった人物が下心のある卑しい人間に変わる。社会の風紀が乱れ犯罪が多発し荒んでいく。

 

一方でライセンスの与え過ぎにより粗悪な模造品も出回るようになった。透明度が劣り、部分的にしか透明にならないものが多発している。頭の無い胴体、半身しか無い体、足の無い上半身、なかには骨だけや特定の臓器だけが不透明な者まで様々だ。

 

まるでお化け屋敷と化しているというか、解剖室の動く標本としか言い様がない。しかも、不幸なことに元には戻せない。医学部の職に就き動く内臓モデルとして経済的に豊かに暮らす人も現れたが、それは少数だ。大方のいわゆる化け物たちは将来の希望の無さを嘆き凶悪犯罪に走る。社会は大混乱の極みだ。

 

こんな世界にしたのは誰の責任なのだろう。これほど酷くなった事態の収拾が出来るのだろうか。

 

 

 

 

 

世界は犯人捜しを始めた。こんなにも透明人間を流行らせた奴は誰だと。透明人間と言えばアキト、アキトと言えば透明人間だから、当然アキトが標的になった。来る日も来る日もアキトが住む島にマスコミは攻撃を仕掛けた。でも当初アキトはイケイケ状態だった。だから、透明キットの販売よりも、透明人間を希望した人に責任があると主張した。アキトは何故これほどまでに爆発的に流行ってしまったのだろうかと冷静に考えた。アキトは「透明人間になりたい理由は人間の基本的な願望」にあると思った。人間には他人に見せたくない心の内がある。だが、心の内はすぐ顔や行動に現れる。でも、透明になれば、完全に隠すことが出来る。しかし、人間の基本的な願望などを自分が止めることなど出来るはずがない。従って、透明人間化剤を提供した自分にはそれほどの責任は無いと考えた。また、かつて日本では若い子のガングロが流行ったことがある。ガングロは化粧の派手さをアピールするが、その根底には化粧で無垢の自分を隠す目的もあったはずだ。透明人間と較べると、見える・見えないの差はあるが、人間の基本的な願望を達成するための手段としては同じようなものだ。

 

透明人間になるための薬を飲んでもさほど苦痛が無いことと、誰でも購入出来る安い薬代であることが、お手軽さを加速させたに違いない。

 

これ程までに社会現象化し大流行した理由は「人間の横並び意識」だとも思った。

 

昔小枝が来日した時、日本の全女性のスカートの丈が、膝下5cmから膝上10~20cmに一変したことがある。電車の中では、新興宗教の信者のように、ほぼ全員がスマホを拝んでいる。世界中の女性が耳に穴を開けピアスをしている。インスタ映えの対象に殺到するのも全て社会現象だ。透明人間化の大流行も、これらの流行と本質的には変わらない。更に、海外ではタトゥーが流行っている。ひとたびタトゥーをすると後日改心しても消すことは出来ない。残るのは後悔しかない。でも猛烈に流行っている。透明人間が不透明に戻れないのも同じだ。透明人間化を望んだ人間に責任がある。タトゥーと同じだ。アキトは出来る限りの主張を続けた。

 

 

 

 

 

だが世の常でマスコミのプレッシャーは強い。アキトはテレビ番組で叩かれるその道の政治家や権力者と同じだった。昼夜を分かたぬマスコミのプレッシャー攻撃に負け殆ど鬱状態に陥った。隠れ蓑として島を抜け出し病院に駆け込んだものの何の効果も無かった。寧ろ見え見えの入院が事態を悪化させた。その後は自然の成り行きで追い詰められ、アキトは人類を混乱の世界に貶めた張本人は自分なのだと良心の呵責に苛まれ始めた。

 

あの時、イギリスに行きさえしなければ、あの本を持ち帰らなければ、なまじ実験など始めなければ、人体実験などしなければ、マジシャンなどにならなければ、透明布など発明しなければ、透明人間化剤と透明布をセット販売しなければ、全世界に拡販しなければと、止めどなく後悔の波が押し寄せてくる。

 

後悔の波は遡及もする。

 

助教になったのがいけなかったのだろうか、化学を専攻したのが間違いだったのだろうか、大学に進学したことが良くなかったのだろうか、それとも生まれてきたことが大間違いだったのだろうかと。そのうち一つでも断っていればこんなことにはならなかったのにとアキトは今までの人生を後悔した。

 

アキトの後悔は更にもっと深い心の内を掘り下げた。

 

子供の頃、自分の学力はクラスでいつも2番だった。一度でいいから1番になって、その高みから周りを眺めてみたかった。

 

自分は教授にはなれなかったが、その地位に就きたかった。一度でいいから教授として助手たちを顎で使い、学生たちにとって怖い存在でありたかった。尊敬される人間にもなりたかった。

 

透明人間を生み出した功績を称えたノーベル賞が欲しかった。

 

世界の5割の人を透明人間にしたカリスマ性を称えて欲しかった。

 

でも、それらが単なる自己顕示欲の成れの果てだと悟った。砂上の楼閣が崩れ去った瞬間だ。

 

一時は自殺さえも考えた。

 

崖の上に立って飛び込む寸前に、どこからか神の声が聞こえてきた。「償いは元に戻すことに尽きるのじゃ」と。神の声の主はSF小説「透明人間」の著者だったのかもしれない。

 

アキトは自殺を思い止まり残りの全人生を、元に戻す薬の開発にかける決心をした。

 

 

 

 

 

5年の歳月を要したがやっと元に戻す薬を開発することが出来た。しかし、この薬の主成分は新しい細胞を造り出す成長促進剤なので、一度服用すると急激に加齢化が進む大きな欠点があった。アキトは急速に老けていく自分の姿を鏡に映しながら、こんな薬は誰にも飲ます訳にはいかないと決意した。もうこれ以上人類に害を与えたくないと堅く決心し、薬を全量廃棄してしまった。結局、透明人間から非透明人間に生還したのは世界中でただ一人アキトだけだった。

 

年老いて非透明人間に戻ったアキトは、後悔を抱えながら絶望の淵に立っていた。

 

 

 

 

 

地球上では透明人間と非透明人間の棲み分けが始まっていた。究極の人種差別だ。だが、不思議なことに非透明人間界ではアキトが退職した頃の白人・黒人・有色人種の人種差別や貧富格差は全く無くなっていた。非透明人間たちは一致団結して世界の各地に透明人間が侵入出来ないコロニーを作った。一方透明人間たちは仲間が見えないので、誰がいるかも把握出来ず組織化も出来ず、コロニーの外側でウロウロするだけだった。

 

アキトは非透明人間のコロニーに入る決心をした。アキトの人生の最後の課題は非透明人間と透明人間を如何に共存・宥和させるかにある。でも非透明人間は透明人間の事情が良く分からない。アキトは透明人間を経験した唯一の非透明人間の自分こそがもっと役にたつはずだと確信した。

 

アキトの実年齢は75歳を超えたばかりだが、薬のため100歳以上の体力・風貌になっていた。アキトは数々の後悔を噛み締めながら、今日も精力的にコロニー内で格差是正運動と共存活動を続けている。今や先導的な指導者になっている。アキトはふと何故非透明人間界で人種差別や格差が無くなったのだろうかと考えた。そうだ、共通の敵が出来れば纏まるのだ。だとすれば、透明人間と非透明人間に共通する大敵を作れば、宥和がはかれるに違いない。フラクタルだ。もし宇宙人が地球を攻撃するか、または共生するようになれば差別は解決するはずだと確信した。アキトにはこれぞという具体的なグッドアイデアが浮かんだ。ある日の重要会議のテレビ中継中のことだ。アキトが発言しようと口を動かし始めたとき、首がカクッと僅かに下に曲がった。30億人の目と人数不明の見えない目が、中継のテレビ画面を凝視し続けている。