「喝」の変遷とその後

大沢監督が逝ってから20年近くなる。当時のテレ朝「サンデーモーニング」は面白かった。野球をメインにスポーツについて御意見番として「アッパレ」「喝」と評価する。でも、大沢親分の喝は、駄目押しの喝ではなく、もっと頑張れという意味での喝が多かった。だから観ている方は、その喝に何か暖かいものを感じたものだ。サンデーモーニングなる番組は、未だに存続している。だが、感じさせるものは変質している。大沢親分が顔を見せなくなり番組が面白くなくなったから自分が観ることは無くなった。否、そうではなく親分以外の番組メンバーの鼻持ちならない態度が嫌いだからだ。特に張本と関口にはウンザリする。関口のいわゆる「人の良さ」を売り物にする態度には吐き気を覚える。自分が無い。いつも人の褌で相撲を取ろうとする。責任転嫁の極芸人と言えそうだ。でも、その上を行っているのが張本。最近も「喝」を連発しているようだ。だが、漏れ聞くところによると「喝」の理由が飛んでいる。大谷の活躍を「まぐれ」としか言わない。大谷とMLB批判はその典型例だろう。でも、番組メンバーは誰も張本の批判はしない。番組自体が腐ってしまった証拠だ。でも唯一批判したのは同じテレ朝「モーニングショー」の羽鳥キャスター。これがテレ朝のヤラセか自浄作用かは分からない。ヤラセなのかもしれないが、少しは自浄作用が働いているのかもしれない。この作用が働くうちに、サンデモ番組を立ち直らせるチャンスはあるのかもしれない。いま大沢親分は草葉の陰から如何に見ているのだろうか。