藤の思い出

新緑が綺麗だ。花も葉も無い木々が緑に覆われ始めた。つい2週間前には、柿の木も梅の木にも葉っぱなどは無かった。それが生まれましたと挨拶するかのように、眩しく軟らかな緑の光を放っている。我が家の隣には、三百坪ほどの広い敷地の家がある。少し坂の上にあり、自分の居場所の二階の書斎から見ると、丁度一階にあるかのような目線上に、まるで自分の庭のように見える。自分は書斎の机に向かっていることが多い。だから、隣の庭は自分の一部でもある。まさに自分にとっての借景なのだ。隣人が庭で何をしているのか、いつ庭師が入るのかも分かる。だが、先日その主が亡くなった。数日後ダークスーツの人たちがうろつき始めた。咄嗟に、この土地も売られ、切り刻まれて何軒かの住宅になってしまうのだろうことが憶測出来た。その主は極めて偏屈で、近所付き合いは皆無。自分から見ても、偏屈で傲慢で、近寄り難い人物だと思っていた。体が悪くなる前は、時々庭の手入れをしていた。素人の自分から見ても庭いじりはかなり苦手のようだが、ある時藤を植えていたことがあった。それなりに一生懸命やっていた。でも主は藤棚は作らず、間に合わせの棒を刺して藤の弦を誘導していた。どう見ようが失敗に違いない。素人以前の腕だと思った。今、藤はだらしなく地を這っている。しかし、今年の隣家の藤は綺麗だ。綺麗と言うよりは勢いがある。その勢いが自分の目に迫ってくる。今まで一言も話したことのない隣の主の意気込みが吹き込まれているかのようだ。せめて生きている間に、嫌いではあるが一言話せれば良かったのにと思う。藤の艶やかさが、そう語りかけているような気がした。