史書「春秋」と日経「春秋」の違い

どうも最近引っかかるものがある。先日も書いた日経の「春秋」というコラムだ。朝日新聞で言えば「天声人語」に対応する新聞社の顔ともいえるものだから「春秋」は日経の考える良識と見做して読んでいる。都知事選は細川と舛添の一騎打ちになりそうだが、今朝の「春秋」は、細川は不明瞭な借金で首相を辞めたので猪瀬と同じだし、自民が応援する舛添は自民を除名されたのにと思うと心にしこりが残り、この2人に投票するのは馬鹿であると書いてある。果たしてこれが日本を代表する新聞社の感性かと嘆かわしくなる。この世の中に一度も間違えを犯したことのない聖人君子など一人もいない。過去への攻撃は、質の低い都知事選立候補者や支援者に任せておけば良い。新聞社の良識なるものが攻めるべき所は、東京都の未来構築について2人の計画、公約の具体性、主義主張信条を抉り出し、何が出来て何が出来そうもないのかを客観的に公に示す事だ。中国の史書「春秋」は些事を取り上げて大局への関係を説く論法だが、日経の「春秋」は些事に拘り大局を見失っているようだ。