飛び交うお年玉

自分が子供の頃、お年玉が貰えるので正月が来るのが楽しみだった。数十円でも嬉しかったが、板垣退助の百円札など入っていようなら大喜びだったことを思い出す。記憶では当時の一日の小遣いは、5円か10円だった。お金の最小単位は1円だったが、駄菓子屋では1個50銭という値札が付いていてそれが通用していた。二宮尊徳の1円札を使って2個買ったことを記憶している。今日は正月の恒例で、全家族が集まった。義母とカミサンと自分、3人の子どもと嫁さんたち、それに5人の孫の計14人。お年玉が飛び交った。義母はひ孫たちに、カミサンは孫たちに、子どもたちはそれぞれの子供たちに。孫は4つのお年玉を手にすることが出来た。一番上の10歳の孫は「ありがとう」とお礼をするし、まだ2つの孫も「ありがとう」と頭を下げる。でも貰ったお年玉は中身も見ずに親へ渡す。「ありがとう」は社交辞令で、お年玉の有り難さは感じていないようだ。昔は5円でも10円でも、使う自分に選択肢があった。それだけ何に使うかは真剣だった。今の子はお金を直接使うチャンスがない。子どもが欲しいと言えば親が買う。限られたお金の中で何を選択するのか、ということではなく欲しいものを如何に親にアピールするかに変わってきた。現代のお年玉とは、与える側が貰う側の気持ちを味わう単なる儀式なのかもしれないとふと思った。