八十八夜に思うこと

今日は八十八夜。数え年の数え方と同じように、立春を第一日と数えると88番目の日が今日だ。京都宇治では観光客相手に茶摘み体験が催されたとのこと。今までの自分であれば、然程気になるニュースではないが、この2年ほどお茶を習っているので、とても身近に感じられる。そして思い出すのが小学生の頃の「茶摘み」という唱歌。一番は「夏も近づく八十八夜、野にも山にも若葉が茂る、あれに見えるは茶摘みぢやないか、あかねだすきに菅の笠」。この一番の歌詞は、お茶の好き嫌いとは関係なく、これが日本の情景ですよと言っているように子供ながら思っていた。そして大人になって二番を知った。一番の歌詞も良いが二番の歌詞はもっと良い。「摘めよ摘め摘め摘まねばならぬ、摘まにゃ日本の茶にならぬ」と「摘」が5回も出てくる。「摘めよ摘めよ」と積極性があり当時の勢いを感じるが、大事な所は「日本の茶にならぬ」というポイントだと思う。一生懸命努力して「日本の茶」を創り出していく姿がすごく強く感じられる。「日本の茶」は、正に世界文化遺産に匹敵するが、それを後押しし裏付けているのが「摘めよ摘めよ」という行為に違いない。お茶は日本の文化です、と言う前に摘むことの努力に思い馳せることが出来れば、日本文化は真っ当に育っていくに違いないと初めて感じた八十八夜であった。