パラリンピックの精神

パラリンピックが始まった。ハンデのある人が、ない人と同じような世界に立てることは勿論素晴らしいと思う。でも自分は五体満足の健常者だから、皆様が言う程パラリンピックを心底から素晴らしいとは絶賛してはいない。パラリンピックとは、ハンデを背負った人だけが味わえる世界だ。車椅子のテニスやバスケットボールの選手たちが活躍している姿は素晴らしい。腕や足の1本が無くなっても活躍出来る場があるのだからハンデのある人にはユートピアだ。自分には経験が無いから、あくまで、もし自分がその立場になっていたらと想像してしまう。だが正直言って想像がつかない。健常者のオリンピックは極めて商業化しているが、パラリンピックは質素だ。本来、ハンデのある人は健常者には敵わいと思う。でも足が無くても、耳が聞こえなくても健常者のようにプレイ出来る。その想像を絶するプレイは驚異的だ。でも、ハンデがあるからこそ、独自の手法を凝らしてハンデを乗り越えるところに価値があると見るべきものなのだろうと思う。その観点で言えば、卓球の男子シングルスに出場したエジプトのイブラハム・マハト選手は凄い。足でボールをトスしサーブする。口でくわえたラケットで応戦する。まさにこれこそがパラリンピックなのだろうと思う。マハト選手は「不可能なことは無い」と言う。健常者と競い合うことがパラリンピックではない。ハンデを如何に克服して見せたかを争うのがパラリンピックの精神だと思う。リオのパラリンピックを見ていて増々人間の可能性の奥深さを感じた次第。

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コメント: 1
  • #1

    fgh (水曜日, 19 10月 2016 10:16)

    jぎお4ぴぇtgpb6;。ky、t。nh