京都で感じたこと

昨日から我が家恒例の京都旅行だ。今回は大河ドラマで注目の紫式部所縁の地巡りがメインになった。昨日は紫式部が源氏物語の着想を得たと伝えられている石山寺。大河ドラマの放送に合わせ「大河ドラマ館」と「恋するもののあはれ展」が開催されていた。石山寺は、紫式部だけでなく、蜻蛉日記の藤原道綱の母や更級日記の菅原孝標女も参詣した文学の寺だ。何となく親しみを感じた。今日は、まず源氏物語の賢木の巻に出て来る嵯峨野の野宮神社を目指した。通勤時間帯を外し、京都駅から旧山陰線に乗った。多少混んでいたが、最初の2駅でほぼ通勤客は下車し、立っている人もいなくなった。嵯峨嵐山駅に到着し、早めに改札口に着くと、後から後から外人がボウフラのように湧いてきた。結局、乗客の殆どが外人だったのだ。改札を出ると、外人の集団は、野宮神社へと続く竹の道方面と嵐山駅方面に分かれた。竹の道は外人で溢れかえっていた。野宮神社付近では大渋滞だ。英語でもない独仏語でもない、中国語でもない、韓国語でもない聞き慣れない外国語が、あちこちで聞こえてきた。外人は他人を気にしないから、気ままに道を塞ぐ。困ったものだと思ったが、その時「バベルの塔」を思い出した。天にも届く神の領域まで手を伸ばすバベル塔を建設しようとしたことに怒った神が「同じ言葉を話すのでこんな事になる。人々の言語を乱し、通じない違う言葉を話させるようにしてしまおう」と言った逸話だ。いま日本ではオーバーツーリズムが問題になっている。まさに実感した。ひょっとすると、日本は神の領域に近づき過ぎたための反動なのかもしれないとも思った次第。