社会の垢

今日は春分。春分は1年に1度しかない日だが、その1度しかない春分の日だけ運行するバス路線があるという。京都バスの95系統だ。大原から、江文峠、市原、貴船口を通り、鞍馬に至る路線。大原と鞍馬と言えば京都の2大観光地。当初は休日運行だったが、利用者が伸び悩み年1回の運行になったとのこと。常識的に考えれば、利用者が減れば路線を廃止すれば良いと思うのだが、バス会社から見れば簡単にハイ!廃線とはならない事情があるようだ。バス路線を新設するには、国交省に申請し、沿道の住民や警察と協議した上でバス停の位置を決めるといった手続きが必要になる。路線を廃止してしまうと、いざ復活となっても同じ手続きをやり直さなければならなくなる。たとえ年に1本でも運行していれば、路線を廃止せずに維持することが出来るのだ。そういえば、我が家の近くを通るバス路線も同じだ。半世紀前に通っていた高校へは、1時間に4~5本のバスが運行していた。ところが、最近では1日に数本しか運行していない。利用者にとっては、実質ゼロの運行でバスは当てにならないのが現状だ。でも、昔ながらの停留所は無くなっていないし、バス路線も存在している。この種のものは、社会の垢だと思う。元々垢は擦って洗い流すものだ。垢という利権を残すから、不潔になる。社会全般に同じ理屈が成り立つように思うのだが。