五輪の定義の行く先

数年前に東京開催を決定した当時は、コンパクトをアピールし運営費の予算はたったの3千億円と表明していたが、今は6倍の1兆8千億円に跳ね上がっていると言う。2020年開催予定の東京五輪の予算だ。バッハ会長が質素さを薦めようが、五輪には巨額な費用が必要になる。それが現実だ。ボストンもハンブルグも巨額費用故に2024年の立候補を取り止めた。辞退の理由は、大会が終れば使われなくなる会場やインフラに多額の費用をつぎ込みたくないから。何処も同じだ。極めて先を見通した常識的で正しい判断だと思う。では日本はどうだろうか。石原、猪瀬の都知事時代は五輪招致に明け暮れた。しかもコンパクトという大嘘をつきながら誘致した。なおかつ国民には経済効果が大きいからとの屁理屈もついた。東京五輪の経済効果は、時事通信によると30兆円に上るという。しかし、バンクーバー五輪での経済効果は全くの期待外れだったことが判明している。近年の五輪では、予算の過小評価も、設備の有効利用も、開催による経済効果も、全て嘘に近い。と言うよりは、嘘そのもので固まっている。開催間近のリオデジャネイロでは、通貨レアルの価値は3分の2になり、GDPも急降下。インフレ率は10%に近づき、失業率も8%と最悪で、ルセフ大統領の汚職弾劾裁判も始まっている。リオの五輪組織委は約2300億円の運営予算の3割削減を検討中とのこと。最早リオだけでなく、東京を見ても独自で開催出来る都市などないのが現実だ。五輪の定義は素朴なアマチュアスポーツとして始まったが、今やプロスポーツ全盛の祭典になっている。健全な精神は健全な肉体に宿ると言うよりは、豊富な金は金メダルの取得に集まるというレベルにまで堕ちている。百歩譲ってそれを良しとしても、スポーツの極みを求めるのならば、今後は都市主催ではなく、地域とか国家とか民族とかの主催に切り替えるべき時に来ているのだろうと思う。もっとも百歩譲っての話だが。